エスニック映画を集めてみた ① ~『ピアノ・レッスン』を彩るマオリ文化と英文学~

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ここでは、人類学者が学術的な目的で撮影した記録映画やドキュメンタリー作品、例えばロバート・フラハティーの『極北のナヌーク(Nanook of the North)』(1922年)や『アラン(Man of Aran)』(1934年)などではなく、いわゆるエンターテインメントとして我々が楽しめる映画の中から、どこか民族誌的なにおいがする作品をいくつか選んでご紹介しよう。

 

魂の解放を叫ぶ一人の女性の生き様をピアノの調べに乗せた、美しい映像詩

ピアノ・レッスン』(原題:The Piano)

公開年:1993年

製作国:フランス、ニュージーランド、オーストラリア

監督:ジェーン・カンピオン

出演:ホリー・ハンターハーヴェイ・カイテルアンナ・パキン

第46回カンヌ国際映画祭パルム・ドール ほか

 

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ヴィクトリア朝に生きた女性達へのオマージュ

ニュージーランド出身で、ヴィクトリア大学ウェリントンで人類学を専攻したカンピオン監督は、「『自分の祖先は誰だったのだろう?』と考えたとき、先住民のマオリの人々が長らく暮らしていたニュージーランドへ入植した、この国で歴史を持たない、あるいはマオリと同じ伝統を持たない英国からの植民者達こそが、自分の先祖だったということを意識せざるを得なかった」と告白する。

 

しかしそれと同時に、この映画は人間の本然の姿を露わにして、その美しさを肯定してやまない作品でもある。1850年代に遠くスコットランドから嫁いできたエイダ(ホリー・ハンター)という女性は、愛してもいない男との望まぬ結婚を強いられるが、まさにヴィクトリア朝の典型的な女性を象徴した存在だ。カンピオン監督はさらに続ける。一人の人間として束縛からの解放を求め、激しいエロティシズムを秘め、感情に溢れた心理的な探求を望む「ミステリアスで魅力的な女性を描きたかった」と。

 

映像詩とでも呼びたくなるような美しい印象的なシーンが多いこの作品は、一方でマオリの土俗的な民族性を湛えつつも、個人の精神性を繊細に磨き上げた文学作品の香りが高い。トーマス・フッドの詩「沈黙」からの引用をはじめ、マイケル・ナイマンによる美しいピアノ・ソロ曲「楽しみを希う心(The Heart Asks Pleasure First)」は、米国の詩人、エミリー・ディキンスンの同名の詩にちなんだものだ。

 

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"The Heart asks Pleasure — first —" を記したエミリー・ディキンスン直筆の草稿 from Emily Dickinson Archive

 

例えば、浜辺に放置されたピアノを山の上から黙って見つめるエイダ。一見、無感情にさえ見える彼女の表情は、沈黙すればこそ、何よりも雄弁に語っているように思える。そこであたかも、ブロンテ姉妹の小説に出てくる極上の一場面を読んでいるような気分になるのだから不思議だ。

 

D・H・ローレンスの『チャタレイ夫人の恋人』を引き合いに出しつつ、恋愛・性愛という観点から本作を論じている映画評もある。もっとも、同時代のヴィクトリア朝が舞台という共通性については、あながち邪推ではない。カンピオン監督自身、「(エミリー・ブロンテの)『嵐が丘』を意識した」と語っている。ヴィクトリア朝という、道徳や性差別、階級差別、人種差別により極めて抑圧された時代にあって、なおも人間の魂の普遍性を探ろうとした文学者たちへのオマージュにも思える。

 

それぞれの解釈

余談になるが、試しに同期の友人ソフィー(彼女はイングランド出身)にも「ねえ、『ピアノ・レッスン』ってどうよ?」と尋ねたことがある。しかし、彼女の返事はいささかつれなかった。「あんなの、途中で見るのやめちゃった」のは、やはり劇中のマオリ族の人々に対する扱いが酷かったせいだ。確かに、教会で開かれた白人植民者達によるしょぼいホラーな舞台劇で、人殺しのシーンを見た彼らが本気になって止めようと騒ぎ出したりするシーンをはじめ、マオリ族の女性たちがべインズに結婚を勧めるために、「一生股の間にぶら下げておくだけなの?」と言わせてどっと笑いの渦に包まれるシーンなどは、“マオリが無知蒙昧で卑猥な輩”だと印象づけてしまうきらいが、なきにしもあらず。

 

早い話が、主要な登場人物が全て白人であり、それこそ現代の人類学がことごとく問題視すべき「ヨーロッパ中心主義(Euro-centrism)」の産物だ、というのである。かなり乱暴にまとめてしまえば、「なぜエイダやべインズ、スチュアートらが主人公なの? あいつら植民者でしょ。よその土地にわざわざやって来て、真っ昼間からセックスしてんじゃねーよ!」というのが彼女の見解の大筋なのだった。……まあ、言えてるけど(苦笑)

 

人類学の授業中、今起こっている社会問題や、古い参考文献などを扱う際に必ずといってよいほど登場するのが、「problematic(問題のある)」あるいは「problematise(問題にする)」という言葉だ。冗談ではなく、本当に耳にタコができそうなくらい聞かされたものだが、要するに「鵜呑みにするな」というやつである。エンターテインメントだからといって、差別を助長するような作品が世に出るのはけしからん。ゆえに問題にしなければならない、という教訓。

 

実際に、『ピアノ・レッスン』に対して「白人至上主義の目で作られた最も不愉快な映画」という痛烈な批判を加えた同業者が、自身もマオリとパーケハー(ヨーロッパ系の入植者)の血を引く映画監督、バリー・バークレー(Barry Ronald Barclay、1944年5月12日 - 2008年2月19日)だった。もちろん、今では人道主義に極めて近しい学問の一つと思われる人類学だけに、たとえカンピオン監督にまったく蔑視の意図がなかったとしても、一部の人々からそのような誹りを受けたという現実は、決して否むことはできない。

 

ただ……そういった見解は重々承知の上で、それを差し引いても、抑圧の歴史に生きた一人の謎めいた女性の精神世界を、ピアノの調べに乗せて解放するという視覚的な試みは、カンヌで認められたように、やはり成功だったのではないだろうか、と筆者の中の一部分は思うのである。その意味で「よくやった、カンピオン監督」と称えたくなるのは、ひとえに筆者が詩人たちの美学を、密かに信じているからにほかならない。

 

A thing of beauty is a joy for ever:

― John Keats from "Endymion, Book I"

 

If eyes were made for seeing, then beauty is its own excuse for being.
― Ralph Waldo Emerson from "The Rhodora"

 

美しきものは永遠の喜び

ジョン・キーツエンディミオン』より)

 

もし目が見るために作られたなら

美は それ自体が存在する理由だ

(ラルフ・ウォルドー・エマーソン『ロドーラの花』より)

 

【参考文献】

Margolis, H., 'Introduction - "A Strange Heritage": From Colonization To Transformation?' in Margolis, H., ed., Jane Campion' s The Piano (Cambridge University Press, 1999)

 

マオリと日本人

Wikipediaトリビアで、面白いネタを見つけた。映画の序盤(UNEXTでは16分05秒くらい経過したあたり)で、ジャングルの悪路の中を進むシーンがあるのだが、案内役のマオリ族の男が「あんな所、生きて通れねえ」という日本語を話しているように聞こえる。実際に聞いてみると、本当にそう聞こえるから思わず笑っちゃったけど(爆)、なかなか感動した。実際のマオリ語では「あそこはあなたの向かう道ではない(Ana to huarahi kite kore.)」という意味らしいのだが、そのセリフの前にも「待て、待て」とも聞こえる箇所があるし……。

 

しかし、このWikipediaにあるマオリ語のセリフだが、実際の映画の台本に載っている当該箇所とは、どうも異なるようなのである。くだんのシーンには、次のようなセリフが当てられている。

 

<Scece 19>

Hone(マオリの酋長らしき男)

「E hinga te Koroua ra B Pitama i konci. Kare noa Kia hikina te tapu.」

(Old man Pitama died here. The Tapu hasn't been lifted.)

「パイタマ爺さんがここで死んだんだ。タプがまだ上ってない」

 

Hone

「E Tarna heke atu ki ram - tiro his atu. Rapuhia mai he huarahi re!

(Go and look, find another track eh!)

「見に行こう、別の道を探そうや」

 

「タプ」とは、マオリ語で「神聖なもの」を意味する。ただ、この言葉を端的に言い表せる訳語が日本語にはないらしい。「神聖さ」「魂」「守護神」「先祖」といった概念や存在といったところか。英語で調べてみれば「tapu lifting」など、タプにまつわる儀式らしき記述はあるのだが、なにしろ実際に見てみないことには分からない。

 

それはさておき、台本にも明記されているように、あえて《字幕なし》となっているだけなのかもしれない。あるいは、撮影現場でセリフが書き換えられた可能性も十分にある。……というわけで、ここの検証は終了! それにしても、Wikipediaのセリフは某テレビ番組でネタとして放映されたそうだが、なにしろいろいろとやらかしている番組だけに、きちんと一次情報に当たって調べたかどうかも疑わしい。

 

閑話休題。日本人の祖先にはマオリ族も入っていると考えられているし(縄文土器の紋様とマオリ族の入れ墨の類似性など)、言語学的な日本語の起源としてマオリ語も含まれていることは、学術的な通説としてあることは確かだ。太平洋方面からは、オセアニアの他にも、南インドタミール語、インドネシア語・マレー語などとの類似も指摘されている。典型的なのが「畳語(じょうご。同一の単語を重ねて一語としたもの)」で、例えば「その光景がありありと浮かぶ」の「ありあり」もその一例。

 

(文法的には、モンゴル語チベット語が、日本語とほぼ同じ語順といわれる。おそらくチベット語は、日本語以外で日本のことを「ニホン」と発音する唯一の言語ではないだろうか? そして漢字文化を受け継いだ、中国や朝鮮半島からの影響は言うまでもない)

 

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入れ墨を施したマオリ族の酋長(1773年)from Wikimedia Commons

 

こうしてみると、マオリと日本人が似ているというのは、あながち希望的観測ではないかもしれない。しかしである。やっぱりこのセリフはただの偶然だと思う(笑)

 

ちなみに「マオリ」とは、本来のマオリ語で「普通」という意味だそうだ。「アイヌ」がアイヌ語で「人間」を意味するのと共通して、もともと人間には「~民族」という他者と自分を区別することを意識した概念がなかったのかもしれない。