人間、このタマネギ的なるもの ~「文化相対主義」をめぐる一考察~

 

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タマネギの断面 from Wikimedia Commons

 

社会科学系の学問をする意義

人間というのは、さしずめタマネギのような生き物だと思っている。これは、あるときから自分の中で着想したイメージに過ぎないのだが、もしかしたら以前に本で読んだのか、あるいか何かの授業で聞いた話だったかもしれない。

 

これと類似した指摘をしている、劇作家の平田オリザ氏による文章を見つけたので、その著作から引用してみよう。(コミュニケーションについて書かれたこの本は、いろいろな視点から見ても非常に良いので、また別の機会に改めて触れてみたい)

 

科学哲学が専門の村上陽一郎先生は、人間をタマネギにたとえている。タマネギは、どこからが皮でどこからがタマネギ本体ということはない。皮の総体がタマネギだ。

 

人間もまた、同じようなものではないか。本当の自分なんてない。私たちは、社会における様々な役割を演じ、その演じている役割の総体が自己を形成している。

 

(『わかりあえないことから ーコミュニケーション能力とは何かー』平田オリザ 著 講談社現代新書

 

この「人間=タマネギ説」をさらに深化させてみれば、国家・民族・宗教・社会・組織・学校・家庭・ジェンダー……そういったありとあらゆる皮を纏いつつ暮らしているのが、いわば普段の、社会的な生き物としての「私たち」である。そのタマネギを覆っているすべての皮を剝ぎ取って初めて、個人という芯が現れるのだ。

 

タマネギの芯としての個人の存在や思考を論理的に追究するのが哲学であり、人間の本然の姿を極限まで問い、生の可能性を美学的に探究するのが文学や芸術の仕事だとしたら、では社会学や人類学を学ぶ意義とは、いったい何だろうか?

 

それは畢竟、こういうことだ。人間が一個体として存在できない、非力な社会的生き物である以上、何かしらの皮を纏って生きざるを得ない。その皮のおかげで利することもある。しかし、その皮を押しつけられ、纏わされることで逆にその人が不幸になっているとしたら?

 

その皮が、個人を理不尽な境遇に追いやり、社会・組織の中で軋轢を掛けたり、ある特徴を伴った人々を疎外(=marginalise)したとき、理不尽を被っている側の人々がよりよい生を生きるためには、どうすればいいのか。その皮の正体を突き詰め、理不尽の仕組みを読み解き、可能な限りの解決法を提示することこそが、社会学や人類学の役割ではないか。逆にいえば、問題のある社会に対して、解決法やその可能性の糸口を提示できないような独り善がりの社会学や人類学は、もはや人間の集団を対象とした箱庭遊び以外の何ものでもなく、不毛かつ無意味でさえある。

 

とりあえず、井戸の中から出てみよう

古典的な人類学風にいえば、いかなるコミュニティーに生きている人でも、多かれ少なかれ「自分が生まれ育ったこの空間が、世界で一番素晴らしい」という錯覚を起こすのだそうだ。例えば、モンゴルの草原でゲルに住むおっちゃんにとって、小規模な一族とともに家畜を引き連れ、自然の移り変わりとともに慎ましく暮らす遊牧民生活が、彼にとってのベストな生き方なのだ。

 

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内モンゴルでは半定住・半放牧の生活が営まれている(中国内モンゴル自治区通遼市庫倫旗)

 

それはそれで、素晴らしい。その生き方が、その人にとって絶対的価値を持ち、かつ他社の生活をも侵害することがなければ、誰にも文句を言われる謂れはないはずだ。

 

ところが、モンゴルのように自然が圧倒的存在であり、人間が小さく生きていればいいような環境は、ことに現代、むしろ人間社会としては珍しくなりつつある。多くの人間社会では、狭い面積の中に人間がひしめき合い、隣人が外国籍だったり、別の宗教を信仰していたり、LGBTQIA+の人だったりする可能性も往々にしてある。

 

他者と共生して生きるためには、絶対的価値観ではなく、相対性の価値観を持つことが必須となる。それを拒否しようものなら、その人間社会は憎悪や敵意が渦巻く、阿鼻叫喚の地獄となるだろう。つい今月に起きた、報復としてのイスラエルによるパレスチナ自治区ガザ地区への空爆(2021年5月10日、同月21日に停戦発効)は、その最たる出来事である。

 

実際、日本列島に住むわれわれも、そういった相対的価値観の欠如とは決して無縁ではいられない。国際化を歓迎する外向きな風潮だった1990年代に比べて、世界の先進諸国がほぼ同じ方向に進んでいるスタンダードの時代とは真逆に逆行している、現代の日本社会全体を覆う暗雲のような閉塞感たるや、特にコロナ危機にあって極めて耐え難いものがある(と複数の知人達も口をそろえて言っているので、おそらくその感覚は間違いがない)。

 

再び、平田氏の言葉を借りてみる。

 

これは文化や風土の違いだから、善し悪しではないし、まして優劣でもない。

 

それぞれの国や民族には、それぞれの文化があり、それはそれぞれ尊く、美点がある。と同時に、当然、他国の文化にも学ぶべき点もあるだろう。

 

(同上、一部抜粋)

 

平田氏は演劇界の方で、文学の人なのだが、これを単なる口当たりのよい理想だと一蹴できるだろうか。否、むしろ人類学の根底は、この言葉に凝縮されているといえる。

 

この文章を記したときに、平田氏が果たして人類学的な用語を意識されたのかどうかは分からない。ただ言えるのは、上記の引用が、20世紀前半に米国の文化人類学から発展した「文化相対主義(cultural relativism)」と、実によく共鳴するということだ。文化相対主義のエッセンスをそのまま象徴しているのではないかとさえ思う。

 

もっとも文化相対主義については、いささか面倒な経緯があって、後年さまざまな方面から批判を浴びた。エスニック好きで高い理想を持ち、人類学について何の予備知識もなく専攻したかわいそうな学生たちは、偏狭なアカデミズムの中でそれらの検証についてあれこれ聞かされ、半ばうんざりしながら理解に苦しむことになるのだが(苦笑)、それでも概ね、文化相対主義が基本的に「全ての文化には優劣がなく、平等に尊ばれるべきだ」という通念を社会に広め、多くの人々の意識に根づかせた功績は、ほとんどの論者が肯定的に認めるところであろう。

 

あるとき、教官の一人が「人類学は、ある意味で哲学的な営みだ」と教わったときには、いささか拍子抜けしたが、今ならよく分かる気がする。人類学の役割とは、社会(=人間の集団)を対象としながら、本質的には個人の存在に関わる問いかけであることを忘れるな、という信条にも似た戒めだったのかもしれない。

 

「もし自分とは異なる特徴を持った他者が、隣りにやってきたとしたら?」

「“井の中の蛙”、世間知らずの田舎者のままでいたいか?」

 

などと自問したとき、胸に手を当てて考えてみるといい。答えはおのずから出てくる。筆者の場合、それは「タマネギのことをもっとよく知りたい」という無邪気で素朴な好奇心と、過去に受けた自身の体験を鑑みて、他者が抱える痛みに共感すること、そしてあわよくば人間がよりよい生を生きるために何かしら役に立ってみたいという、生涯にわたるテーゼのようなものだと認識している。

 

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夕陽に映える内モンゴルの草原(中国内モンゴル自治区通遼市庫倫旗)